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パンの歴史館

5庶民に広まったパン

文明開化の明治を
象徴する洋食文化

幕末から明治にかけて、東京、横浜、神戸などに外国人向けのホテルが増えていきました。当初、幕府はフランスから軍事的な支援を受けていたため、フランス人宿泊客が多く、ホテルではフランスパンを焼いていました。しかし、幕府が倒された後の明治政府はイギリスから支援を受けたので、ホテルのパンも山型のイギリスパンが主流になり、それが次第に日本人のあいだにも広まっていきました。皮の固いフランスパンよりも、やわらかいイギリスパンのほうが、ご飯食になじんでいた日本人の嗜好に合っていたのでしょう。

一方、銀座木村屋の創業者・木村安兵衛氏は、日本人の好みに合わせ、日本酒づくりに使う米こうじ(酒種)でつくったパン生地を開発。1875年には、この生地であんを包んで焼いた「あんパン」を売り出して大ヒットとなりました。その後、庶民の間ではあんパンやジャムパン、クリームパンなどの菓子パンが定着していきました。

また、1890年に大凶作が起こり、米が不足すると代用食として、食パンに砂糖じょうゆをつけて焼いた「つけ焼きパン」が大流行。その後の日露戦争や第一次世界大戦の折には、捕虜となったロシア人やドイツ人から、それぞれの国の製パン技術が日本へ伝えられました。

大正時代になると、アメリカでイーストのつくり方を学んだ田辺玄平によって、1913年に国産イーストが開発され、それを使ったパンづくりが行われるようになりました。しかし、一般市民がおやつではなく、食事のときにご飯にかわる主食としてパンを食べるようになったのはずっと後、第二次世界大戦後のことでした。
戦後の食糧難の時代には、アメリカなどから救援物資として小麦粉が届けられ、配給されるようになりました。そんな中で、家庭に配給された小麦粉をあずかり、パンに加工する「委託加工所」が登場。ヤマザキパンの前身である山崎製パン所が創業したのもこのころのことです。

パンの小話

パンは脚気(かっけ)の薬!?

明治政府の軍隊は、元薩摩藩(鹿児島県)と元長州藩(山口県)の下級武士たちによって構成されていました。それまで食べていた麦飯と違い、軍隊の食事はピカピカの白米です。ところが、この食事のせいで、ビタミンB1不足による脚気にかかる兵士が続出。当時「江戸わずらい」と呼ばれた脚気は、伝染病と誤解され、恐れられていました。

 あわてた政府が、病人を居留地のドイツ人病院へ入院させたところ、あら不思議。病院でパンとミルクの食事を食べているうちに、脚気がみるみるよくなったのです。当時は知られていませんでしたが、これはパンに含まれる豊富なビタミンB1の働きによるものでした。このことがきっかけで、パンが脚気に効くらしいといううわさが広まり、パン食のよさがあらためて見直されたといわれています。